タクシーでOCSI (Okinawa Christian School International)の入口前に降り立った僕は目の前に立つあまりにも新しくかつ、立派な校舎に圧倒された。
こんなピカピカの校舎は誰が見ても比較的最近建てられたものだ。つまり、僕の知っている校舎ではありえない。
普段はおそらく誰も歩くことのない広すぎる道路には日光を遮るものがなく、照りつける太陽を感じながら近づいた。入口の看板には「訪問者は事務所に連絡してください」と書いてあったが、どこが事務所なのかもよくわからない。
校舎の横から入っていくと、中庭の広い緑芝生では小さな男の子たちがサッカーをしていた。ボールを競って生き生きと追いかけている二人の子供の背丈はだいぶ違う。小学校低学年と、幼稚園年長という感じだろうか?
良く見るとサッカーをしている子供たちの背丈と年齢はおそらくマチマチでかなりバラツキがありそうだ。
そういえば日本の学校ではこんな光景はあまり見られない。日本の小学校でサッカーをやっていたら、自由時間であってもまず全員が同じ学年でみんな同じような背丈と運動能力の子供たちでやっているだろう。
(どうして、ここではこんなことが可能なのだろう?)
たぶん、日本の男の子世界ではおそらく幼稚園年長以降くらいから、リーダー格以下の「サル山の序列」が形成され、その後の「ニッポン株式会社」における「おじさん年功序列社会」につながっていく「日本の男社会」での生き方が刷り込まれていく。
だから日本の小学校でこんな年齢ミックスのサッカーをしたら、年長組だけでボールが回されてしまう気がする。
(・・・・・・・)
嬉々としてボールを追う子供たちを眺めていると、おそらく先生の一人であるベテランらしいの日本人のシスターがやってきた。
「見学者の方ですか?」
普段は英語をメインに使っているのだろう、シスターの日本語はたどたどしくガイジンのように英語なまりだった。
「あっ・・・・いえ・・・・。あの~・・・昔、ここにいたので・・・」
そういうと、シスターは要領を得たように表情を変えた。
「じゃあ、先生は誰かしら?」
「いや・・・あの、たぶんもうわからないので・・・」
「XXXさん? YYYさん?・・・・・事務所に行けば卒業アルバムあります。」
だいたい僕は幼稚園中退(?)でほとんど記憶がない。しかも可愛がってくれたW先生はもう20年以上前にカナダに帰ったと聞いている。
「あっ・・・・いえ・・・もうずいぶん昔なので・・・もういないと聞いてます。それより、見学者ってよく来られるんですか?」
「あなたみたいに昔の生徒さんが大きくなって子供を連れてくるケースが最近はよくあります。」
(そうなのか・・・)
「ところで、昔の学校はここにはなかったですよね? 全然、記憶と場所が違うんですけど。」
「ああ、昔の学校は・・・」
僕は親切なシスターに昔の学校のだいたいの場所と行き方を教えてもらい、お礼を言って別れた。
やっぱり昔の学校は、今よりももっと那覇寄りの場所にあったのだ。
僕は高台に立つ学校から、さっきの子供たちが毎日黄色いスクールバスに乗って通過するであろう学校前の一本道の下り坂を、目の前に広がる海に向かって歩き、さっき来た国道58号線を逆走するためにバス停を目指した。
2012/09/22
残波岬海岸
初老の運転手さんに昔、残波岬でさんざん潮干狩りをした話をすると、運転手さんは灯台から最初の道でハンドルを左にきってタクシーをしばらく進めると、道路わきに停車させた。
「貝掘りやったんなら、たぶんこの辺だよ。」
運転手さんは潮干狩りと言わずに「貝掘り」と言った。確かに潮干狩りの日には大量のサザエなどを持ち帰ったものだ。ごつごつした岩場は潮だまりから道路のすぐ下まで来ていて、記憶にある通りだ。
しかし・・・・。
「・・・・・」
運転手さんは独り言のように続けた。
「でも、今はもうダメだね。この辺の海は死んでる。」
「捕れないの?」
「ぜんぜんダメ。もうこの辺には何もいない。」
「今でも捕れるところはあるの?」
「もっと北の方に行けば、捕れるかもしれないけど、このあたりでは無理だね・・・」
沖縄本島の北端に追いつめられたヤンバルクイナのように、あの沢山いた青い宝石のようなスズメダイや、岩ガニそして、サザエはもう残波岬海岸からは消えてしまったようだ。
また一つ、いつのまにか僕は貴重な幼児体験の場所を失ったことを知った。
2012/09/15
残波岬灯台
バスの終点、「読谷バスターミナル」はバスのUターン・ループを備えていたが、乗ってきたバスが引き返していくと人影が全くなくなり、周囲には店のようなものも何もなかった。
しかたなく張り紙の番号を見ながら携帯タクシーを呼び出し、バス停のベンチでぼんやり晴れた空を眺めてまっていると、やがて浅黒い顔の年配の運転手が乗るタクシーがやってきた。
「どこ行くの?」
実は読谷まで来たからにはクリスチャン・スクールとは別にもう一つ行きたいところがあった。
「・・・・とりあえず残波岬まで、行ってもらえますか」
読谷というところは沖縄本島の中央部から西側に飛び出ており、その先端が残波岬。運転手が連れて行ってくれたのはその先端にある残波岬灯台だった。
灯台は断崖のやや内側にあり、周囲は簡単な柵で囲われているが、柵の中では海がよく見えない。他の観光客にならって柵を乗り越え、「ごおーっ」と吹きつける潮の香が強く混ざった海風に逆らって、ごつごつした岩の上を歩いていくと、沖縄特有の色の濃い青い海原が現れた。
海の向こうに見える陸地は本部半島であろう。今回は時間がないので昔、海洋博の会場があった本部(もとぶ)まで行くことはできない。
僕は子供心にもあこがれだったあの白いアクアポリスの姿を心に想い浮かべながら海の向こうを眺めてしばし立ちつくした。
2012/09/08
ブルーシール(その2)
ブルーシールの広々とした店内に入り、ミントチョコをコーンで頼んで大きな4人掛けのテーブルの一つを占拠してチマチマ食べていると、米兵であろう白人の夫婦がベビーカーを押しながら入ってきて、それぞれダブル・コーンを注文して悠然と食べ始めた。
(それにしてもブルーシールが長く本土に展開されなかったのはなぜなのだろう・・・)
どうでも良い疑問を押さえこみ、場所のわからなかったオキナワ・クリスチャン・スクールについて携帯で検索する。どうやら、学校はもっと先の読谷(よみたん)に所在するらしい。
(そんなのぜったいにおかしい・・・・)
学校がブルーシールより先にあるのはどうしても腑に落ちないが、こうなったら行ってみるしかないだろう。
気がつけば、白人夫婦はあっという間にダブルコーンを終えて、店内からいなくなっていた。ようやくミントチョコを腹におさめた僕はもう一度バスに乗って国道58号線を北上し読谷を目指すためバス停に戻った。
2012/09/02
プルーシール(その1)
読谷ターミナル行きバスは快調に進み国道58号線を北上しつづけ、浦添市に入った。左手の海沿いには米軍関係の施設が次々と現れては消えて行くが、記憶にあるようなファントム戦闘機の姿は見えない。
(米軍基地も昔とはいろいろ変わっているのかもしれない・・・)
バスの終点ターミナルの「読谷」は「よみたん」と読む。そうか、谷という漢字は少しなまって「たん」と読むのかと思ったが、物事はなんでもそう簡単ではない。読谷の手前には「北谷」というバス停があり、これは「きたたん」ではなく「ちゃたん」と読む。
バスが読谷ターミナルまで行くには1時間以上かかるらしい。子供が幼稚園に毎日通えるのは一体どのくらいの距離だろうか? 僕は那覇から黄色いスクールバスに乗せられてアメリカン・スクールに通っていた。
バスが読谷ターミナルまで行くには1時間以上かかるらしい。子供が幼稚園に毎日通えるのは一体どのくらいの距離だろうか? 僕は那覇から黄色いスクールバスに乗せられてアメリカン・スクールに通っていた。
(でも、どう考えても1時間以上ドライブして幼稚園に通っていたとは思えない。)
そうこう考えていると、国道わきの柵の向こう側に垂直尾翼が二枚立った戦闘機の姿が見えた。
(あっ!!)
あわてて周囲を見渡すが、学校の入口らしきものは見えない。
(・・・・・・・・・・・)
やがて、国道58号は米軍基地から離れるように大きく右にカーブして戦闘機の姿はあっという間に後ろに消えて行った。と、そこに見覚えのある店舗が現れた。
(あっ、ブルーシールだっ!!)
僕はあやうくバスの中で大きな声をあげそうになった。この少し下り坂の大きなカーブの終わりに出現するブルーシールは昔、親につれていってもらった記憶にある店の感じと一致する。
でも、あのブルーシールが幼稚園の行き帰りの道にあったはずはない。もし途中にそんなものがあれば子供は絶対に覚えている。ブルーシールはもっと遠くのビーチなどに行った帰りに寄ってもらえるところだったのだ。
(つまり、学校はこれより手前ということになる・・・・)
今でこそブルーシールは本土にも出店したりして有名になってきているが、だからといっていつでも食べられるというわけではない。僕は次のバス停で降りて、なつかしのアイスクリームを食べに行くことにした。
(あっ!!)
あわてて周囲を見渡すが、学校の入口らしきものは見えない。
(・・・・・・・・・・・)
やがて、国道58号は米軍基地から離れるように大きく右にカーブして戦闘機の姿はあっという間に後ろに消えて行った。と、そこに見覚えのある店舗が現れた。
(あっ、ブルーシールだっ!!)
僕はあやうくバスの中で大きな声をあげそうになった。この少し下り坂の大きなカーブの終わりに出現するブルーシールは昔、親につれていってもらった記憶にある店の感じと一致する。
でも、あのブルーシールが幼稚園の行き帰りの道にあったはずはない。もし途中にそんなものがあれば子供は絶対に覚えている。ブルーシールはもっと遠くのビーチなどに行った帰りに寄ってもらえるところだったのだ。
(つまり、学校はこれより手前ということになる・・・・)
今でこそブルーシールは本土にも出店したりして有名になってきているが、だからといっていつでも食べられるというわけではない。僕は次のバス停で降りて、なつかしのアイスクリームを食べに行くことにした。
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