沖縄から帰らなければならない日、僕は残った時間でお土産を探して、国際通りから市場を散歩してあるいた。周囲に漂うとても良い、なつかしい香りに引かれて、とある小さなお店の店頭で見つけたのがこれ。
(むーちー ?)
考える前に心の中に言葉が浮び、なぜかはよくわからないが、これをムーチーという確信があった。お店のおばさまたちに一つ注文して、スタンドに腰かけて、おばさまがムーチーを蒸して温めるのを待つ。」
「これ、ムーチーでしょ?」
「そうそう」
「あのね・・・昔、僕は天妃小学校にいたことがあるんだよ」
天妃小というのは市場からは国道58号線を渡った反対側にある小学校である。
「おばちゃんたちは上山中。」
上山中学校は僕がわずかな期間だけ通った天妃小学校の敷地の隣にある中学校だ。
「ああ、そうなんだ」
「あっちのほうは『駐在さん』たちがよくいるけど、こっちは人が動かないからね。」
そうなのだ。僕は駐在の子供だったのだ。そういう意味では沖縄人ではない。
やがてムーチーが目の前に置かれた。テーブルの上でピンク色の紐を解いて葉っぱを広げ、少しくっつくムーチーをむき出しにするとさらに良い香りが広がった。
(この香りは・・・・)
ムーチーとは、つまり沖縄でいう「もち」のことであり、月桃(ゲットウ)という葉にくるんで蒸してあるのだが、普通の葉とは違って月桃がなんとも言えない甘い香りを出す。
いや、そんな理屈はどうでもいい。
僕はなぜかとてもなつかしい気分になり、ムーチーを少しずつ口に運ぶたびに自分はこれを知っているという確信を深めた。人間の五感のうち、嗅覚のみが大脳ではなく小脳につながり、一番本能に近いと聞いたことがある。僕の幼児体験は知識には残らず、小脳だけに残っていたに違いなかった。
なぜか僕は月桃に包まれたムーチーに自分のわずかな沖縄アイデンティティーを感じ、ちょっとの幸せ感とともに、そのムーチーをお土産に持ち帰った。
しかし、人間は匂いを記憶することができないのだ。帰って数日後、目の前からムーチーがすっかりなくなると、原始の記憶は再び小脳の奥にしまい込まれてしまった。
この記憶スイッチを再び押すために、僕はまた新しいムーチーを食べなければならないに違いないのだった。
(むーちー ?)
考える前に心の中に言葉が浮び、なぜかはよくわからないが、これをムーチーという確信があった。お店のおばさまたちに一つ注文して、スタンドに腰かけて、おばさまがムーチーを蒸して温めるのを待つ。」
「これ、ムーチーでしょ?」
「そうそう」
「あのね・・・昔、僕は天妃小学校にいたことがあるんだよ」
天妃小というのは市場からは国道58号線を渡った反対側にある小学校である。
「おばちゃんたちは上山中。」
上山中学校は僕がわずかな期間だけ通った天妃小学校の敷地の隣にある中学校だ。
「ああ、そうなんだ」
「あっちのほうは『駐在さん』たちがよくいるけど、こっちは人が動かないからね。」
そうなのだ。僕は駐在の子供だったのだ。そういう意味では沖縄人ではない。
やがてムーチーが目の前に置かれた。テーブルの上でピンク色の紐を解いて葉っぱを広げ、少しくっつくムーチーをむき出しにするとさらに良い香りが広がった。
(この香りは・・・・)
ムーチーとは、つまり沖縄でいう「もち」のことであり、月桃(ゲットウ)という葉にくるんで蒸してあるのだが、普通の葉とは違って月桃がなんとも言えない甘い香りを出す。
いや、そんな理屈はどうでもいい。
僕はなぜかとてもなつかしい気分になり、ムーチーを少しずつ口に運ぶたびに自分はこれを知っているという確信を深めた。人間の五感のうち、嗅覚のみが大脳ではなく小脳につながり、一番本能に近いと聞いたことがある。僕の幼児体験は知識には残らず、小脳だけに残っていたに違いなかった。
なぜか僕は月桃に包まれたムーチーに自分のわずかな沖縄アイデンティティーを感じ、ちょっとの幸せ感とともに、そのムーチーをお土産に持ち帰った。
しかし、人間は匂いを記憶することができないのだ。帰って数日後、目の前からムーチーがすっかりなくなると、原始の記憶は再び小脳の奥にしまい込まれてしまった。
この記憶スイッチを再び押すために、僕はまた新しいムーチーを食べなければならないに違いないのだった。
果たして、ここまで個人的な内容を他人が読んで意味があるのか?と思いつつ、それでも何人かの方々がつれづれに読んでくださっているのはありがたいかぎりです。おかげさまでなんとか最後まで書くことができました。