あるときマドリッドのレストランに入り、食事をすることになった。
案内されて椅子に座ったところで、ふと、ここで英語を使ってしまうのは野暮のように思われた。
昔、妹がフランス南部の人と結婚した日本人の友人が、義理の弟との会話で英語で使うと『なに、気取ってんだよ』っていう雰囲気になる、と言っていたのを思い出したのだ。
きっと英語は仕事のときにやむを得ず使う、というものなのだろう。
とりあえず無言でメニューを受け取り、なんとなくステーキを頼むことに決定。
スペイン語はよく分からないので、ウェイターのスペイン人のお兄さんにはメニューを指差して注文したが、ふと頭の中に架空のスペイン男が出てきて勝手につぶやいた。
『まったくステーキを注文しておいて、焼き加減を指定しないなんて信じられないね』そうなのだ。やはり食事はエンジョイしなくては・・・。
英語を使わずに身振りのみでミディアム・レアを指定できるだろうか?
(・・・・・)
僕は2秒考えて、『ミディアム・レア』を諦め、『レア』に挑戦することにした。
「あー・・・」まず、意味不明な音を発してウェイターのにいちゃんの注意をひいて、アイコンタクト。
まず、右手で肉を挟んで、鉄板の上に置くフリをして
「ジュー・・・・ジュー・・・・・」と2、3秒、肉を焼く擬音を口から発した。
若いウェイター氏は明らかに、僕が肉を焼くそぶりをしているのを理解しているようだ。
そして、今度は、その右手で肉をひっくり返すフリをしてまた、2、3秒肉を焼く音。
「ジュー・・・・ジュー・・・・・」動作を切って、人差し指を左右に振りながら、
「ノン!!」と重要な一言。
「オーケー・・・」もちろん、これだけではウェイター氏には何が良いのかわからないはずだ。
僕は今度はすばやく一瞬、肉を焼く音をさせ、間髪いれずにひっくり返してまた短く焼く音。
「ジュ!! ジュ!!」という感じにやった。さっきのよりも極端に焼く時間を短く!!
そして、身振りの終了とともに右手でオーケーサイン。
するとウェイター氏、今度はうなずきながら、確認するように同じことを僕に向けてやって見せた。
「ジュー・・・・ジュー・・・・・
(ゆっくり、ひっくり返す)
ジュー・・・・ジュー・・・・・
ノン。」 (僕はここでうなづいてみせる)
「ジュ、 (すばやくひっくり返す) ジュ!!」どうやら完璧だ。僕はウェイター氏への念押しの一言を。
「ぐらしあす!!」これで英語を使わずにレア・ステーキの注文を完了。うまくいっただろうか?
いろいろ想像しながら待っていると、やがて注文したステーキがやってきた。
焼き加減はどうだろうか?ナイフとフォークで、約1センチの厚いステーキを切り、断面を開いて愕然とした。
断面はほとんど100%ピンク色!!
表裏のわずか紙一枚の薄さ分も火が通っていない!!超ウルトラ・レアとでもいうべき、ほとんど牛肉のたたきのような状態だ。
きっとあのウェイター氏は、厨房に対して
「レア」と伝えたのではなく、
「ジュ!! ジュ!!」という身振りのみを伝えたのだ。
その結果、厨房のシェフはこれを無類の生肉好きの客が来たと解釈して、本当に
「ジュ!! ジュ!!」という身振りの時間だけ、焼きを入れたに違いない。
こうしてその晩、僕は少しブラック・ペッパーの効いた、噛みごたえ満点のウルトラ・レア・ステーキを長時間にわたって十二分に堪能したのだった。
やっぱり食事はゆっくり楽しまないとね。
