昔、内資のとある製造工場で働いていた頃、ある日、工場でたたき上げた大先輩に連れられて、和食の良いお店で夕食をおごってもらうこととなった。
割烹みたいなそのお店で、とても上品なお料理を食べているとその先輩が僕を見てこういった。
「こら、『ばっかり食べ』はいかんぞ。作法にも消化にも悪いぞ。」
どうも年配の大先輩は、僕が他の料理を放って先に刺し身だけを全部食ってしまったのが気に入らなかったらしい。
ここで「すみません」とか言っとけばいいのに、つい僕はこういってしまった。
「はい、でもフランス料理のコースを食べるときって、『ばっかり食べ』ですよねぇ~。」
「こら、屁理屈を言うな!!」
大先輩は別に怒った風もなく一喝してくれた。
で、今でもよく思うんだが、日本人が「屁理屈」と呼ぶものは、多くの場合、特に欧州人には食事にふさわしい教養ある優雅な会話ネタになるような気がしてならない。
同じ割烹でフランス人エクスパットと全く同じ料理を食べていると仮定して、会話を想像してみよう。
「フランス料理では、料理が順番に出てきて、同じものを一つずつ食べ終わりながら味わっていきますよね。でも、日本では違うんです。」
「おう、確かにいろいろな料理がいっぺんに出てきているね。どうしてなの?」
「日本では一口ずつ山海の幸をいろいろ楽しみながら食べて季節を味わうのです。〔ホントか?〕だから、子供のときには、よく親に好きな料理だけをそればかり食べるなとよく怒られました。」
エライ違いだ。
ただ、こういう会話を成立させるためには、どうしても最初のWhyに答えるという難関があるのだが、普段から「屁理屈」を考えていない人間にはこれがうまくできないらしい。
思うに、エクスパットとの仕事外の会話は屁理屈で成り立っているのだ。
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